現教団が決定し、全国に通達した祭祀の方法は、生長の家の教えに完全に反している!
宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」
全国講師 花田 研
◆ 生長の家の主斎神(しゅさいしん)
「生長の家」教団は、昭和15年に施行された宗教団体法によって、当時の文部省から宗教として認められました。しかし、当初、生長の家は「教化団体生長の家」としての届け出を提出していたのですが、文部省の見解では、生長の家は人を信仰的に導いていく力が強く、その力は教化団体とか修養団体というような弱いものではなく、人心を信仰的に集中する力があるから、宗教として認めざるを得ないので、宗教団体としての届け出をするようにという文部省の指導でした。
文部省への届け出にあたって、宗教というものには「教義」がなければならない、また「儀礼」がなければならない、それから「本尊」として奉斎(ほうさい)する神または仏を安置しなければならない、というわけで届け出の書類にそれを書かなければならないところがあったそうです。
ところが、生長の家は万教帰一の教えであって、生長の家独特の教義というものはない。仏教の教えも説くし、キリスト教の話もすれば、広く金光教や天理教の教えにも触れながら、方便自在に相手に従って説教をするのが生長の家であるから、特別の教えというものはないのです。
それから、生長の家には特別の儀礼というようなものもない。仏教のように葬式や法事というような宗教的儀式もないし、キリスト教のように洗礼やミサという儀式もありません。生長の家で行う先祖供養は、神道(しんとう)の形式をもって行いますが、それは神道の形式を借りて行うものであって、もちろん生長の家独特のものではありません。
さらに、生長の家の本尊といっても、後に昭和53年に長崎の地に建立された「龍宮住吉本宮」に住吉大神(すみのえのおおかみ)を祭祀するのは、鎮護国家(ちんごこっか)としての特別の意義がある例外であって、全国の生長の家の教化部や道場には、特に神を祀る祭壇は設けていないし、礼拝の像も置いてありません。
そこで、届け出には「教義」の項目に〝無し〟、「儀礼」の項目にも〝無し〟、「奉斎神(ほうさいしん)又は安置仏」の欄にも〝無し〟と書いて文部省に提出したところ、係の担当者から「それでは宗教という定義に当てはまらないから、〝無し〟では困る」と言われたそうです。それで、いろいろと相談したところ担当者が言うには、『生命の實相』という聖典があるし、「七つの光明宣言」もあるから、それを教義にしたらどうかとか、神想観という観行があるし、『甘露の法雨』や『天使の言葉』などのお経があってそれを読誦(とくじゅ)するのだから、儀式あるいは行事として書けば良いではないか、というようなことになったのだそうです。
また、奉斎(ほうさい)する主神あるいは安置すべき仏像のようなものは、全国のどこの道場にも祭っていないのですが、それは形としては祭っていないけれども、信仰ということですから、心に祭る神は存在する。その心に祭る神を仮に本尊として届け出た、ということであります。
実際に、届け出には次のように書かれました。
《道場又は集会室に特に顕斎(けんさい)せる主斎神(しゅさいしん)又は安置仏なし。心に幽斎(ゆうさい)する主神としては宇宙大生命(みおやのかみ)(その幽之幽なる神として天之御中主神、幽なる神として天照皇大神、現人神として天皇)を礼拝す。(略)宇宙大生命(みおやかみ)の道を顕揚(けんよう)し、日本国威を発揚し、皇威を顕揚する東道(みちびき)の神として心に幽斎する副神として生長の家大神(『古事記』『日本書紀』に顕れたる住吉大神(すみよしおおかみ)即ち後に塩椎神(しおつちのかみ)、仏典に顕れたる釈迦、観世音菩薩及びその応化仏(おうげぶつ)、基督教(キリストきょう)の『黙示録』第一章に顕れたる七つの燈台(とうだい)の点燈者(てんとうしゃ))を礼拝す》(『生長の家五十年史』323頁。原文はカタカナ表記)
◆ 宇宙大生命(みおやかみ)は御宮(おみや)に祭らない
この届け出に出ている顕斎(けんさい)と幽斎(ゆうさい)について、谷口雅春先生は、『神の真義とその理解』において次のように説示(せつじ)されています。
《顕斎(けんさい)と云うのは、形に顕(あら)われた斎(まつ)りで、お宮を祭ったりするとか、仏像を安置して拝むとかするのであります。又幽斎(ゆうさい)と云うのは形を顕わさないで心でお斎(まつ)りするのであります。生長の家では別に道場又は集会室に顕斎(けんさい)せる主斎神(しゅさいしん)又は安置仏がないのであります》(101頁)
生長の家で主斎(しゅさい)する神は心に幽斎(ゆうさい)するのです。
《吾々生長の家の団体では、心に宇宙大生命(みおやのかみ)を祭るのであります。(中略)『古事記』に、「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成(な)りませる神の名(みな)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」とこう書かれてあるところの宇宙の大神であらせられます。天之御中主神は斯くの如く、幽(おく)の幽(おく)の大実在であられますが、この宇宙の大神が、依然として幽玄(ゆうげん)にましまして、吾等の思慮の及ぶところではございませんが、幽之幽(ゆうのゆう)なる天之御中主神よりも一段ハッキリと、『日本書紀』に録(しる)されたる通りの「光華明彩(ひかりうるわしく)六合(りくごう)に照徹(てりとお)れる」神として顕現あそばされたのが天照大御神であらせられ、更にその天照大御神様が御肉体を以(もっ)て現人神(あらひとがみ)として現われていらせられる神様として天皇を礼拝する――これが生長の家誌友が心に主斎(しゅさい)する神様でございまして、御宮(おみや)のような眼に見える形で御祭りするのではありませんから幽斎(ゆうさい)すると申すのであります》(同書102~103頁)
ここにはっきりと、「宇宙の大神であらせられる天之御中主神は、御宮のような形で祭るのではない」と示されていますから、今般、現教団本部から指示のあった、道場の「實相」額の前に、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の神霊符(しんれいふ)を納めた社(やしろ)を祭るということは、いかに大きな間違いであるかが分かります。
さらに七重塔を合わせて礼拝の対象とするなどというのは、谷口雅春先生の説かれた御教えからかけ離れた行いなのです。
◆ 礼拝の対象は「実相」のみ
現教団本部の考案した七重塔が、いかに「神の造り給いし無限多様の実相世界を象徴する」という理屈を付けても、それは神意に基づく根拠のあるものではありません。それは「七つの灯台」の存在を押し隠すためのものでしかないのです。
「七つの灯台」は、「完成(ななつ)の灯台の神示」の中で神が「われは『完成(ななつ)の灯台』に灯(ひ)を点ずるものである」と仰せられている通り、神意に基づくものです。しかし、その「七つの灯台」を礼拝せよとは、谷口雅春先生は決して言われませんでした。生長の家で礼拝するのは「実相」のみです。『生命の實相』に次のように説かれています。
《「實相」という掛軸が道場に出ておりますけれども、これは皆さんに宿る「実相」を思い出させるためであって、御賽銭(おさいせん)を払わすためでない。どこにも皆さんに拝んで下さいというような社(やしろ)は拵(こしら)えてないのであります。それは社を拵えて拝むのが悪いのではない、大いに敬神思想でいいのですけれども、しかし皆に拝ますところの殿堂を拵えて拝ますと、生長の家の神様はあのお堂の中にのみいらっしゃって、自分の中にいないのだと誤解する人が出来ることがある。そして自分のいのちの中に宿る塩椎之神(しおつちのかみ)を忘れ、自己に宿る「如意宝珠(にょいほうじゅ)」を忘れてしまって、何か他物に対して奴隷の如く平身低頭して、或は賄賂の如く金銭を供えて、神様から、何か御利益を貰おうというような人が出て来る惧(おそれ)もあるので、そういうようなことのないように拝むように、生長の家では一般礼拝のための祭壇は拵えていないのであります》(新編『生命の實相』第21巻197~198頁)
生長の家の礼拝は、「実相」の御額(おんがく)あるいは御軸(おんじく)を通して生命の実相を拝むのであり、礼拝の対象物を設けていないのです。これが、谷口雅春先生の説かれた御教えであります。
月刊『谷口雅春先生を学ぶ』令和2年7月号
※こちらの掲示板に詳しい情報が掲載されています。
全国講師 花田 研
◆ 生長の家の主斎神(しゅさいしん)
「生長の家」教団は、昭和15年に施行された宗教団体法によって、当時の文部省から宗教として認められました。しかし、当初、生長の家は「教化団体生長の家」としての届け出を提出していたのですが、文部省の見解では、生長の家は人を信仰的に導いていく力が強く、その力は教化団体とか修養団体というような弱いものではなく、人心を信仰的に集中する力があるから、宗教として認めざるを得ないので、宗教団体としての届け出をするようにという文部省の指導でした。
文部省への届け出にあたって、宗教というものには「教義」がなければならない、また「儀礼」がなければならない、それから「本尊」として奉斎(ほうさい)する神または仏を安置しなければならない、というわけで届け出の書類にそれを書かなければならないところがあったそうです。
ところが、生長の家は万教帰一の教えであって、生長の家独特の教義というものはない。仏教の教えも説くし、キリスト教の話もすれば、広く金光教や天理教の教えにも触れながら、方便自在に相手に従って説教をするのが生長の家であるから、特別の教えというものはないのです。
それから、生長の家には特別の儀礼というようなものもない。仏教のように葬式や法事というような宗教的儀式もないし、キリスト教のように洗礼やミサという儀式もありません。生長の家で行う先祖供養は、神道(しんとう)の形式をもって行いますが、それは神道の形式を借りて行うものであって、もちろん生長の家独特のものではありません。
さらに、生長の家の本尊といっても、後に昭和53年に長崎の地に建立された「龍宮住吉本宮」に住吉大神(すみのえのおおかみ)を祭祀するのは、鎮護国家(ちんごこっか)としての特別の意義がある例外であって、全国の生長の家の教化部や道場には、特に神を祀る祭壇は設けていないし、礼拝の像も置いてありません。
そこで、届け出には「教義」の項目に〝無し〟、「儀礼」の項目にも〝無し〟、「奉斎神(ほうさいしん)又は安置仏」の欄にも〝無し〟と書いて文部省に提出したところ、係の担当者から「それでは宗教という定義に当てはまらないから、〝無し〟では困る」と言われたそうです。それで、いろいろと相談したところ担当者が言うには、『生命の實相』という聖典があるし、「七つの光明宣言」もあるから、それを教義にしたらどうかとか、神想観という観行があるし、『甘露の法雨』や『天使の言葉』などのお経があってそれを読誦(とくじゅ)するのだから、儀式あるいは行事として書けば良いではないか、というようなことになったのだそうです。
また、奉斎(ほうさい)する主神あるいは安置すべき仏像のようなものは、全国のどこの道場にも祭っていないのですが、それは形としては祭っていないけれども、信仰ということですから、心に祭る神は存在する。その心に祭る神を仮に本尊として届け出た、ということであります。
実際に、届け出には次のように書かれました。
《道場又は集会室に特に顕斎(けんさい)せる主斎神(しゅさいしん)又は安置仏なし。心に幽斎(ゆうさい)する主神としては宇宙大生命(みおやのかみ)(その幽之幽なる神として天之御中主神、幽なる神として天照皇大神、現人神として天皇)を礼拝す。(略)宇宙大生命(みおやかみ)の道を顕揚(けんよう)し、日本国威を発揚し、皇威を顕揚する東道(みちびき)の神として心に幽斎する副神として生長の家大神(『古事記』『日本書紀』に顕れたる住吉大神(すみよしおおかみ)即ち後に塩椎神(しおつちのかみ)、仏典に顕れたる釈迦、観世音菩薩及びその応化仏(おうげぶつ)、基督教(キリストきょう)の『黙示録』第一章に顕れたる七つの燈台(とうだい)の点燈者(てんとうしゃ))を礼拝す》(『生長の家五十年史』323頁。原文はカタカナ表記)
◆ 宇宙大生命(みおやかみ)は御宮(おみや)に祭らない
この届け出に出ている顕斎(けんさい)と幽斎(ゆうさい)について、谷口雅春先生は、『神の真義とその理解』において次のように説示(せつじ)されています。
《顕斎(けんさい)と云うのは、形に顕(あら)われた斎(まつ)りで、お宮を祭ったりするとか、仏像を安置して拝むとかするのであります。又幽斎(ゆうさい)と云うのは形を顕わさないで心でお斎(まつ)りするのであります。生長の家では別に道場又は集会室に顕斎(けんさい)せる主斎神(しゅさいしん)又は安置仏がないのであります》(101頁)
生長の家で主斎(しゅさい)する神は心に幽斎(ゆうさい)するのです。
《吾々生長の家の団体では、心に宇宙大生命(みおやのかみ)を祭るのであります。(中略)『古事記』に、「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成(な)りませる神の名(みな)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」とこう書かれてあるところの宇宙の大神であらせられます。天之御中主神は斯くの如く、幽(おく)の幽(おく)の大実在であられますが、この宇宙の大神が、依然として幽玄(ゆうげん)にましまして、吾等の思慮の及ぶところではございませんが、幽之幽(ゆうのゆう)なる天之御中主神よりも一段ハッキリと、『日本書紀』に録(しる)されたる通りの「光華明彩(ひかりうるわしく)六合(りくごう)に照徹(てりとお)れる」神として顕現あそばされたのが天照大御神であらせられ、更にその天照大御神様が御肉体を以(もっ)て現人神(あらひとがみ)として現われていらせられる神様として天皇を礼拝する――これが生長の家誌友が心に主斎(しゅさい)する神様でございまして、御宮(おみや)のような眼に見える形で御祭りするのではありませんから幽斎(ゆうさい)すると申すのであります》(同書102~103頁)
ここにはっきりと、「宇宙の大神であらせられる天之御中主神は、御宮のような形で祭るのではない」と示されていますから、今般、現教団本部から指示のあった、道場の「實相」額の前に、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の神霊符(しんれいふ)を納めた社(やしろ)を祭るということは、いかに大きな間違いであるかが分かります。
さらに七重塔を合わせて礼拝の対象とするなどというのは、谷口雅春先生の説かれた御教えからかけ離れた行いなのです。
◆ 礼拝の対象は「実相」のみ
現教団本部の考案した七重塔が、いかに「神の造り給いし無限多様の実相世界を象徴する」という理屈を付けても、それは神意に基づく根拠のあるものではありません。それは「七つの灯台」の存在を押し隠すためのものでしかないのです。
「七つの灯台」は、「完成(ななつ)の灯台の神示」の中で神が「われは『完成(ななつ)の灯台』に灯(ひ)を点ずるものである」と仰せられている通り、神意に基づくものです。しかし、その「七つの灯台」を礼拝せよとは、谷口雅春先生は決して言われませんでした。生長の家で礼拝するのは「実相」のみです。『生命の實相』に次のように説かれています。
《「實相」という掛軸が道場に出ておりますけれども、これは皆さんに宿る「実相」を思い出させるためであって、御賽銭(おさいせん)を払わすためでない。どこにも皆さんに拝んで下さいというような社(やしろ)は拵(こしら)えてないのであります。それは社を拵えて拝むのが悪いのではない、大いに敬神思想でいいのですけれども、しかし皆に拝ますところの殿堂を拵えて拝ますと、生長の家の神様はあのお堂の中にのみいらっしゃって、自分の中にいないのだと誤解する人が出来ることがある。そして自分のいのちの中に宿る塩椎之神(しおつちのかみ)を忘れ、自己に宿る「如意宝珠(にょいほうじゅ)」を忘れてしまって、何か他物に対して奴隷の如く平身低頭して、或は賄賂の如く金銭を供えて、神様から、何か御利益を貰おうというような人が出て来る惧(おそれ)もあるので、そういうようなことのないように拝むように、生長の家では一般礼拝のための祭壇は拵えていないのであります》(新編『生命の實相』第21巻197~198頁)
生長の家の礼拝は、「実相」の御額(おんがく)あるいは御軸(おんじく)を通して生命の実相を拝むのであり、礼拝の対象物を設けていないのです。これが、谷口雅春先生の説かれた御教えであります。
月刊『谷口雅春先生を学ぶ』令和2年7月号
※こちらの掲示板に詳しい情報が掲載されています。